坐禅は、多くを要しません。そして、そこにこそ難しさがあります。誘導する声もなく、心を据える対象もなく、これからの三十分で成し遂げるべきことも、何ひとつない ― ただ、背を立て、目を覚まして坐るだけ。何かをしたがる自分のいっさいが、餌をもらえぬまま、そこにいる。坐禅のためのタイマーの務めは、ひとつきりです。鐘で始まりと終わりをしるし、それから消えて、あいだの沈黙を、まるごとひとりにしておくこと。

## 坐禅のタイマーは、どう合わせればよいか

開きの鐘をひとつ、二十五分から四十分の沈黙、そして閉じの鐘をひとつ ― あいだには、ほかに何もありません。途中の合図も、進み具合も、声もない。只管打坐、「ただ坐る」においては、まんなかの鐘が分けるべきものが、そもそも無いのです。ただひとつの例外は、あいだに経行(歩く坐禅)をはさんで二炷坐るとき。そのときだけ、タイマーは継ぎ目をしるします(鐘そのものについては[瞑想の鐘を選ぶ](/ja/journal/choosing-a-meditation-bell)に)。始めるなら、一炷のほうが澄んでいます。二十五分 ― 昔の数えでいう、おおよそ線香一本 ― が伝統的な長さであるのには、わけがあります。落ち着くには十分に長く、背を立てたままでいるには十分に短い。

## 沈黙こそが、修行である

禅堂では、ひと坐りは線香一本ではかられ、鐘で縁取られます。堂行が始まりに鐘を打ち、終わりに鐘を打つ。あいだには、何も言いません。鐘は坐禅の一部ではなく、その周りの垣根です。たいせつなことのいっさいは、鐘が囲うその沈黙のなかで起こり、タイマーがその沈黙を侵すことが少ないほど、よく務めを果たしています。だから坐禅のタイマーは、ちょうど二つの音を ― 歩くなら四つを ― 立てればよい。途中ではげましを鳴らすアプリは、坐禅の周りではなく、坐禅のなかで鳴っていることになります。

## 経行をはさんで、二炷坐る

伝統のかたちは、坐禅と経行 ― ゆっくりとした歩く坐禅、坐と坐のあいだの数分を足で運ぶ ― を交互にします。自宅でも、この姿は保てます。二十五分か三十分のひと坐り、鐘、ひと息に半歩の速さで歩く五分の経行、鐘、そしてふた坐りめ。坐る・歩く・坐るとつなげられるタイマーは、禅堂なしに、禅堂の調子を自宅の修行へ与えてくれます。経行は坐禅の中休みというより、同じ注意を、背を立てたまま床の上に運んでいくことなのです。