ストリークとは、行いが「よい」あいだは増え、そうでなくなったとたんに〇に戻る数字のことです。習慣をつくるには強力で、瞑想の実践を保つには、ひそかにそれを蝕む。zenflowはそれを持ちません ― ストリークも、回数も、お祝いも。これはこのアプリで、いちばん意図された「ない」です。

## なぜストリークは落ち着いた実践に逆らうのか

ストリークは、続けることに報酬を、途切れることに小さな罰を結びつけます。三十日のあいだは、あなたをおだてる。三十一日め、暮らしが割り込んでくると ― 病気、旅、つらい一週間 ―、数字は〇に落ち、せっかく積み上げていた実践が、とつぜん失敗のように枠づけられます。あなたの注意は何も変わっていない。変わったのは得点板だけです。

もっと深い問題は、もっと微妙です。ストリークがあると、人は*ストリークのために*座りはじめます。数字を生かしておくためだけの、あわてた二分の一座は、実践ではありません。カウンターに餌をやっているのです。動機が内から外へ移り ― そして瞑想が静かに教えようとしていること（いまここにあるものに、別のかたちを求めずに出会えるということ）が、今日を座る日にしたくてたまらないアプリによって、掘り崩されてしまいます。

## かわりに静かな記録は何のためにあるのか

記録そのものは役に立ちます。ただ、意見を持つべきではない。zenflowは、あなたの一座の素朴な記録 ― いつ、どれくらい ― を端末のなかに残します。それだけです。アップロードもされず、採点もしません。点をつけられることなく、「冬のほうがよく座るな」とか「長い一座は週末に固まるな」と、振り返って気づくことができます。気づくのはあなたの仕事。記録は論評しません。

これは、鏡とコーチのちがいです。鏡はあるものを映します。コーチはあなたへの計画を持っています。タイマーは、鏡であるべきです。

## 「意見を持つアプリ」なしで実践する

完璧な連続、という考えを手放してください。かわりに、保てる床を置く ― 調子の悪い日でも一座と数えられる、いちばん短い長さです。[どれくらい座ればいいのか](/ja/journal/how-long-to-meditate)に書いたとおりに。床には、落ちるべき〇がありません。座ったか、明日座るか、どちらでも糸は保たれます。

あとはアプリを消えさせます。長さを決め、鐘を選び、携帯を置く。抜けた一日は、ちぎれた鎖ではありません。ただ座らなかった一日です。実践が数字だったことなど、一度もない。それは座ることであり、座ることは明日もそこにあって、あなたに何も求めません ― ただ、現れることのほかは。